Archive for the ‘デザインに想う’ Category

最近クライアントとよくお話しさせていただく。

つくづく思うのは「家」という想いだ。

もちろん私にも家族がいる。

そんなお互いの想いの先には「暮らし」という将来と未来がある。

「家」は、けして商品ではない。

無論、あるべきでは、「ない」のだ。

・・・・

「人」は、悲しいかな生み出す事が出来ない存在である。

地球上に存在しうる生物や植物とは、違う「悩み」を持ちあわせながら、

それ以上の「幸せ」を得ようとしている。

自らが生計を営む「場所」を決め、我が子の為に暮らし創る。

それ故に我一片のスタイルなど存在しないのが現実なのだ。

「こだわる」という現在では贅沢というべきな響きは、

「家づくり」というくくりからすれば至って「普通」なのだ。

言い換えれば、そんなふうに思わされているのだ!

既製品や建て売り!都合のいい企画住宅という一見、わかりやすく都合良く、便利であるカタチも

知らない内にクライアントが「モノ」に合わせる!という逆転が生じる。

必ず窮屈な暮らしに完成後に気づくだろう。

我々の責務は、そんなつまらないロジックなどさっさとゴミ箱に捨てさり

クライントの為に汗をかくことだろう。

・・・・

「家づくり」を推奨してキャッチセールスとしているメーカーや業者は襟を正すべきである。(つづく:sim)

COLOR

佇まいと美しさ・・とは、

繊細なディティール

抑えられたモデュロール

シンプルな導入手法

・・・・が集結したモノだと想う(sim)

グレートワン

ひときわ存在感をはなつグレートワン。

ヒューマンスケールを逸脱するスケール感はここまでくると気持ちいいくらい(笑)

ベーシックなデザインでもいろんな手法で変わるものです。(sim)

TOYOKITCHEN HP→ http://www.toyokitchen.co.jp/products/lighting/tk_selection2/

COLOR

2プロジェクトのデッサンがカタチづけられていく。

ドローイング・ゾーニング・スケッチ・モデリングといろんな手法を用いてイメージを検証していくのだ。

双方家族構成やこだわりは違うもののフラットな平屋暮らしという点では同じである。

すなわち平屋独特の佇まいと開放性は暮らしに直結する大切なファクターとなる。

クライアントから頂いた一定の時間軸のなかで出来る限りの可能性と現実性を整えて行くワーキングは

毎日が繰り返しともいうべき暗中模索的な中に一線の結論を出す

スリリングな仕事であることは間違いないだろう。

来週末と今月末のプレゼンテーションに向けて作業は進む。

時間軸との戦い

ビルダーの役割は設計と同等の必要性と責任を担う。

家づくりにおいて3分法の一端を独立生産性を持ちクライアントの想いを創って行く。

それほどビルダーの資質は重要な存在である。

いわゆる思想的ポリシーが求められるのである。

いつも設計の根幹に好奇心という想いを告げているがビルダーに至ってもそうだと確信している。

「儲からない」

「時間がない!」

などなどクライアントが聞くとガッカリするところだが

この世界、如何に時間をつくるのが勝負と言っていいだろう。

なぜならモノづくりには近道は無いのだ!

一日24時間決まっている時間軸で生きて行くしかない。

これはアーキテクト・ビルダーのみならずクライアントとも同じである。

自営も公務員もサラリーマンもみな同じである。

時間という枠の中で如何に稼ぎ次世代へ繋げて行くか・・・・

そうして時代は伝承へとつながり反映して来たのである。

そんな好奇心豊かなビルダーに恵まれるクライアントは本当に幸せである(つづくsim)

設計事務所と話そう!

今年でEIIEを立ち上げて7年になる。

本業とは別軸で様々な取り組みを二人でしてきた。

もう一度、本来の取り組みを今年は推進して行く事を決めた。

設計というのは、どういう事なのか?・・・と言う事だ!

熊本に帰って来てほとんどの人が理解していない!

(言い換えれば知らされていないのだ:泣)

知る手段は全国紙の建築関係の雑誌(それも泣)

設計に身を投じることなく想像域で判断している人々・・・・

ややするとプロデュースという立場の人も理解に乏しいだろう。

想像では理解したように想えるほど浅くカンタンではないのだ。

このような事を書けばクライアントのみならず万人から敬遠されそうだが気にする事はない。

1、「物」は売らない

これは基本中の基本!

1、施工を伴う設計は設計ではあらず!

なぜか?

「物=金」というのか成立すると様々なシガラミが発生するのだ!

1、施工業者と群れる設計は設計にあらず!

付き合うと群れるのでは雲泥の差がある!

癒着の始まりはすべて「物=金」からはじまる。

タブーな関係を明らかにすれば自ずとクライアントの選択肢は的を得てくるだろう!

「設計事務所は恐くない!」・・・とおちゃらけた記事を読んだ事がある(笑)

同業からすれば「フンっ」と笑うかもしれないが

パートナーであるクライアントからすれば興味深い記事だろう!

文化圏(東京)で仕事をしていた時代は同じ感覚だったが熊本にかえってきて「なるほど!」と想う!

建築家クラブを発起しちょっとずつ進めて来た企画を

今年は邁進させようと想う!

家づくりを思案しているクライアントには是非、最初に門戸をたたく場所を

設計事務所にして欲しい!

熊本にはきっとあなたの理想に近い設計事務所が存在するからだ!

プロデュースや施工業者にたよらず

自分の見聞きで判断すべき事象であることが一番大切なカタチになってあらわれる第一歩なのだ!(つづく:sim)

スタート祈願

仕事始めの今日!

吉川さんと二人で新年祈願にと毎年、参拝している加藤神社へとやってきた。

3プロジェクトの安全成就もふくめ本格的に現場もスタートする。

春には「smart」と「Whity」が完成し「COZY」が着工するのだ!

本当に楽しみである。

そんな朝一番の気持ち良い空気のなか

はく息も白く、まばゆい日差しのスタートとなった!

パン!パン!(笑:sim)

元旦

2012年 元旦 三ノ宮神社へとやってきた。

近所という事も有り毎年参拝に訪れる。

子供の頃よく此処や二ノ宮神社の境内で遊んでいたのがなつかしい。

すっかり本殿や社務所なども整備され毎年にぎわいを見せている。

最近は父に引き連れられ甥も娘も正月の間、地域奉仕のため頑張っている。

笛や太鼓をたたき、たまには伝統神楽を舞ったりもしている。

そんな地元へのちょっとした繋がりが世代をつなげ近所付き合いをつくっていくのだろう。

そんなあわただしい正月の合間におこなわれる親戚会も毎年の恒例行事。

自作の門松も飾られ

久しく会う皆さんと過ごす楽しい時間となった。

春からは甥も娘も此処を離れ自活生活がスタートする。

来年からはいっそう此処で過ごす正月が楽しい時間となるだろう(笑:sim)

家を建てる

クライアントは日々の稼ぎから家を建てる。

ローンを組み長い年月を経て家を建てる。

・・・

ソレを担う関係者はソレを分かち合える方がいい。

飛び超えることなく

そっと側に居るべき。

・・・

そっと手を差し伸べながら見えない曲がり角を案内すべきである。

住宅業界と建築界は相対する存在。

・・・

建築家といえども皆と同じ世界でいきている。

社会とうまく付き合いながら他人の幸せを築くモノである。

・・・

けして企業ではなく一人の想いと理念で進むもの。

クライアントの想いが個々の願うカタチとなる。

・・・

そんなクライアントへの想いがあるモノは悲しいかな社会の片隅にいる。

けして奢る事無く静かに居るモノである。

・・・

そんなジレンマとも言える想いと

クライアントが一般常識と信じている家づくりへの錯覚を

ブレークスルーする為に我が社をつくった。

・・・

熊本において活動をされている建築家の事務所を廻り

間違った家づくりの縦割り構造をブレークする動きをした。

(建築家クラブである)

写真は当時、設計事務所による運営によって企画した「建築展」の一コマである。

また

地元で平等公平をうたったプロデュース会社とも付き合った。

・・・

残念ながら想い半ばでプロデュース会社は廃業となってしまったものの

この取り組みのもと

完成したクライアントはとても良い生活をおくっている。

(いまでもお付き合いをさせていただいている)

・・・

そんな

二人で始めた試みも今年で7年となった。

・・・

当時、熊本に戻って来て驚いた事が有る。

建築界でアトリエというような個人設計事務所の社会的位置と認知度だ。

県民性といえばそうかもしれないが

クライアントの家の求め方にはなはだ疑問がある。

いいかえれば設計事務所のアピール不足といってもいいだろう。

・・・

そんな事象の隙間を埋めるべく

プロデュース会社という立場の方々や企業が台頭してきている。

・・・・

そもそも

家を欲しいクライアントと

家を建てるビルダーがあれば良い話である。

簡単にいえば

建主と大工で十分なのだ。

・・・

しかし大工と言っても腕のいいモノでなければならない。

・・・

そして

幸せなのか現代で暮らす社会人は少なからず家を持てるシステム(分割支払い)になってる。

一生家を建てられない人が少ないくらいだ。

・・・

しかし世界常識から言えばどうだろう。

家を持てないのが普通である。

幸せなのか不幸なのかそんな世俗である。

識字率も世界から比べると高い日本。

皆平等という理念のため産まれた社会である。

・・・

数が増えれば大工のキャパや工法・技法にも限界があらわれ

設計という立場が生まれたのである。

19世紀などは時代(経済)が建築家を求めたものだが

今ではそんな事象はほとんどありえない。

・・・

話は戻り

「家を持つ」という事は、

家族皆が将来まで健康に暮らし、稼ぎ、暮らすという営みである。

・・・

ならばソレを受け止めてくれる家本体のコストバランスは非常にシビアなものだろう。

・・・

住宅メーカーは利益率を4割程度想定している。

いいかえれば住宅ローンの4割程度は家族の為ではなく

顔も知らない他人の為に働くのだ。

数列からすれば25年に対して10年というタイムスパンだ。

・・・

そんなタイムバランスが今の変な社会を形成している。

かなしいかな現代社会はそんな一面をもっている。

・・・

設計施工をうたう工務店は3割程度

(私から言えば設計と施工を両立しているなど有り得ない話である)

・・・

施工を専門とし建築が好きでクライアントのためにあるものは1割程度

と様々な利益配分が存在する。

・・・

単純にクライアントからしてみれば将来のリスクと我が家に対する対価バランスが合致してほしいものだろう。

・・・

我々の役目は単にデザインするだけでなく

根底には

社会における「幸福度のバランス」といった成形の責務を担っているのだと感じる。(sim)

ブーレーとルドゥ

モダニズム建築を理解する上で必ず引用される建築家ブーレーとルドゥ。

建築芸術は長い年月を経て後世と現代を結ぶ一本の光によって繋がっている。

世界の建築主流は国によって文化の違いは有れ根本の想いは以外と単純なもので共通財産だろう。

言葉が違い色も違う文化でも単純な程シンプルなモノだろう。

だたシンプルだからこそ困難な坂道もあるのは確か。

それは机上の理論ではなく汗と皺を実感した者のみ得られるカタチ。

そこに到達する事が建築を志す者全ての願いといってもいい。

(少なくとも私の求め探す時と場所)

俗世と隔離する境地とは裏腹に社会に追随しなければ表す事のない葛藤も確かである。

様式建築の脱却と束縛から脱皮

2者よる近代建築のヒントはいまの時代にも一時の光となっているのは確かである。

当時の純粋建築と違い現代は様々な事象が存在するだろう。

ドローイングによる美しく信仰建築とは現代は遠く遥かなモノとなってしまった。

ただ先人達の取り組みや情熱は今の社会でも学ぶところの学問に勝る思想が存在する。

建築思想がマイノリティ的な社会になった要因は一体なんなのか?

日本建築界が世界建築界にくらべ遅れをとっているのはなぜか?

自由奔放なカタチがなされないのはなにか?

個々に限られた時間という枠の中でどこまで近づけるか

残りの道程を想いながらも明日という日がくる幸せがあるのである。(sim)